記録ID: 2810027
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ハイキング
京都・北摂
大文字山(029)蹴上〜日向大神宮〜伊勢神宮遙拝所[往復]〜如意越〜大文字山三角点[往復]〜楼門の滝〜鹿ケ谷〜錦林車庫前
2020年12月20日(日) [日帰り]



体力度
2
日帰りが可能
- GPS
- 03:26
- 距離
- 6.4km
- 登り
- 439m
- 下り
- 414m
コースタイム
過去天気図(気象庁) | 2020年12月の天気図 |
---|---|
アクセス |
利用交通機関:
電車 バス
|
写真
こんなところに京都検定の問題のヒントがあった。
順正書院???
こんな難しい問題はわからん!
京都検定16回-1級-6問(昨年実施の問題)
江戸時代の京都の学者について、()にあてはまる最も適当な語句を書きなさい。
人物名⇒( )(1787〜1854)
略歴⇒現在の京都府宮津市の出身で、西洋医学を修め、天保10年(1839)医学校の順正書院を創立し、系統的な医学教育を行った。その建物は現在、料亭として使われている。
解答⇒新宮凉庭
解説⇒順正書院を創立したのは江戸時代後期の医師、新宮凉庭である。京都の蘭学全盛期を代表する一人といわれる。11歳で伯父から医学を習い始め、20代になって長崎で5年間、語学や西洋医学を研鑽、オランダ商館の医師から直接学ぶ経験をした。京に入り開業すると、西洋医学の権威として高い評価を受けた。凉庭の最大の功績は、南禅寺山門の西に私費を投じて建てた順正書院を中心とした医学教育にあるとさる。「八則」と名付けられた、生理学則や病理学則、外科学則、薬性学則など8学科を、系統的に教えた。一方で、多くの文人墨客が訪れ交友するサロンともなった。凉庭は財の運用に長け、天下国家を論じ実践する幕末期の代表的人物とも評されている。(問題集解説より)
知らんかった(-_-;)
順正書院???
こんな難しい問題はわからん!
京都検定16回-1級-6問(昨年実施の問題)
江戸時代の京都の学者について、()にあてはまる最も適当な語句を書きなさい。
人物名⇒( )(1787〜1854)
略歴⇒現在の京都府宮津市の出身で、西洋医学を修め、天保10年(1839)医学校の順正書院を創立し、系統的な医学教育を行った。その建物は現在、料亭として使われている。
解答⇒新宮凉庭
解説⇒順正書院を創立したのは江戸時代後期の医師、新宮凉庭である。京都の蘭学全盛期を代表する一人といわれる。11歳で伯父から医学を習い始め、20代になって長崎で5年間、語学や西洋医学を研鑽、オランダ商館の医師から直接学ぶ経験をした。京に入り開業すると、西洋医学の権威として高い評価を受けた。凉庭の最大の功績は、南禅寺山門の西に私費を投じて建てた順正書院を中心とした医学教育にあるとさる。「八則」と名付けられた、生理学則や病理学則、外科学則、薬性学則など8学科を、系統的に教えた。一方で、多くの文人墨客が訪れ交友するサロンともなった。凉庭は財の運用に長け、天下国家を論じ実践する幕末期の代表的人物とも評されている。(問題集解説より)
知らんかった(-_-;)
京都市の墓地
琵琶湖疎水の田邉朔朗のお墓がある。
探してみたけれどどこにあるのかまだわかりません(-_-;)
琵琶湖疎水
・・・・・・・・
疏水工事の責任者は工部大学校(現東京大学)出身の若き技術者田邊朔郎、当時の京都府知事は北垣国道であった。
・・・・・・・・
なお田邊朔郎の妻静子は北垣国道の令嬢であった。夫妻の墓は蹴上近くの大日山墓地にある。
・・・・・・・・
(京都検定テキストより)
琵琶湖疎水の田邉朔朗のお墓がある。
探してみたけれどどこにあるのかまだわかりません(-_-;)
琵琶湖疎水
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疏水工事の責任者は工部大学校(現東京大学)出身の若き技術者田邊朔郎、当時の京都府知事は北垣国道であった。
・・・・・・・・
なお田邊朔郎の妻静子は北垣国道の令嬢であった。夫妻の墓は蹴上近くの大日山墓地にある。
・・・・・・・・
(京都検定テキストより)
こんなところに!
頼山陽の山紫水明処はこんなところではなかったのでは?こことどんな関係があるのかなぁ。
山紫水明処
(上京区東三本木通丸太町上ル南町)
丸太町橋の北側、鴨川の西岸に面してある頼山陽の書斎。頼山陽は、江戸時代後期の儒学者で、文化八年(一八一一)、三十二歳の時に広島から京都に出て、文政五年(一八二二)から没する天保三年(一八三二)までをこの地で暮らした。山陽は邸宅を「水西荘」と名付け、文政十一年に増築した書斎を「山紫水明処」と名付けた。京都の形容詞ともいえる「山紫水明」という言葉はこれ以降使われるようになったといわれる。山陽を慕って、多くの文人墨客がここを訪ねた。広島にいた頃に草稿の完成していた著作『日本外史』もここで完成し、文政十年には松平定信に提出された。没後に刊行され、ロングセラーとなり、幕末期には尊攘派志士の精神的な支えとなった。そのような由緒から、国の史跡に指定されている。(京都検定テキストより)
頼山陽の山紫水明処はこんなところではなかったのでは?こことどんな関係があるのかなぁ。
山紫水明処
(上京区東三本木通丸太町上ル南町)
丸太町橋の北側、鴨川の西岸に面してある頼山陽の書斎。頼山陽は、江戸時代後期の儒学者で、文化八年(一八一一)、三十二歳の時に広島から京都に出て、文政五年(一八二二)から没する天保三年(一八三二)までをこの地で暮らした。山陽は邸宅を「水西荘」と名付け、文政十一年に増築した書斎を「山紫水明処」と名付けた。京都の形容詞ともいえる「山紫水明」という言葉はこれ以降使われるようになったといわれる。山陽を慕って、多くの文人墨客がここを訪ねた。広島にいた頃に草稿の完成していた著作『日本外史』もここで完成し、文政十年には松平定信に提出された。没後に刊行され、ロングセラーとなり、幕末期には尊攘派志士の精神的な支えとなった。そのような由緒から、国の史跡に指定されている。(京都検定テキストより)
日向大神宮
(山科区日ノ岡夷谷町・一切経谷町)
祭神
天照大御神、宗像三女神(内宮)
瓊々杵命、天之御中主神(外宮)
明治維新までは粟田口神明宮、恵美須谷神明宮とも呼ばれた。顕宗天皇の時代に創建、 清和天皇の勅願により勧請されたともいう。開運・厄除け・縁結びの神として知られる。境内奥にある天岩戸をくぐり厄を抜けるという「ぬけ参り」は、節分に最もご利益が高いとされている。(京都検定テキスト)
(山科区日ノ岡夷谷町・一切経谷町)
祭神
天照大御神、宗像三女神(内宮)
瓊々杵命、天之御中主神(外宮)
明治維新までは粟田口神明宮、恵美須谷神明宮とも呼ばれた。顕宗天皇の時代に創建、 清和天皇の勅願により勧請されたともいう。開運・厄除け・縁結びの神として知られる。境内奥にある天岩戸をくぐり厄を抜けるという「ぬけ参り」は、節分に最もご利益が高いとされている。(京都検定テキスト)
京都検定の問題
〇神明造の社殿が内宮と外宮に分かれ、古くは粟田口神明宮と呼ばれてた神社はどこか。
〇顕宗天皇の時代に創建されたとも、清和天皇の勅願により創建されたとも伝わる、山科区内にある式内社はどれか。
〇日向大神宮境内奥にある天岩戸をくぐると、厄が抜
けるといわれる習わしを何というか。
〇神明造の社殿が内宮と外宮に分かれ、古くは粟田口神明宮と呼ばれてた神社はどこか。
〇顕宗天皇の時代に創建されたとも、清和天皇の勅願により創建されたとも伝わる、山科区内にある式内社はどれか。
〇日向大神宮境内奥にある天岩戸をくぐると、厄が抜
けるといわれる習わしを何というか。
今日は珍しく楼門の滝へ。
鹿ケ谷
『京都府地誌」によれば、比叡山延暦寺の円珍(智証大師)がこの地を訪れた時、一頭の鹿が現われ、円珍を導いたという伝承に由来するという。平家打倒の陰謀を企てた僧俊寛の山荘があったことでも有名。(京都検定テキスト)
京都検定過去問
〇平家打倒の陰謀を企てた僧である俊寛の山荘があったのはどこか。
〇円珍(智証大師)が訪れた際に、辺りを案内したとされる動物にちなんで名づけられた( )は、俊寛の山荘があったことでも知られる。
〇後白河法皇と、藤原成親・西光・俊寛らの平氏打倒の謀議を行ったといわれる場所で、今日の伝統野菜のかぼちゃにもその名がつく地名はどこか。
鹿ケ谷
『京都府地誌」によれば、比叡山延暦寺の円珍(智証大師)がこの地を訪れた時、一頭の鹿が現われ、円珍を導いたという伝承に由来するという。平家打倒の陰謀を企てた僧俊寛の山荘があったことでも有名。(京都検定テキスト)
京都検定過去問
〇平家打倒の陰謀を企てた僧である俊寛の山荘があったのはどこか。
〇円珍(智証大師)が訪れた際に、辺りを案内したとされる動物にちなんで名づけられた( )は、俊寛の山荘があったことでも知られる。
〇後白河法皇と、藤原成親・西光・俊寛らの平氏打倒の謀議を行ったといわれる場所で、今日の伝統野菜のかぼちゃにもその名がつく地名はどこか。
霊鑑寺
(左京区鹿ヶ谷御所ノ段町)
本尊 如意輪観音
臨済宗南禅寺派の尼門跡寺院。山号は円成山。谷御所・鹿ヶ谷比丘尼御所ともいう。承応三年(一六五四)に後水尾上皇の皇女、多利宮(浄法身院宮宗澄)が天台宗の寺として現在地の南隣に創建し、まもなく改宗した。貞享四年(一六八七)には後西天皇の旧殿を賜わって現在地に移転。その後、明治まで皇女が住持を継承した。庭園は上下二段に分かれ、主庭は下段の客殿南庭。東西に野面石垣の斜面があり、石垣下に枯池がある。南東隅に滝石組、対岸左に般若寺型燈籠を配置。後水尾上皇遺愛の日光椿の他、多数の名椿が植えられている。多くの御所人形をはじめ、歴代天皇の遺愛の香炉、書画や衰翰などを所蔵する。(京都検定テキスト)
過去問
〇「谷御所」とも呼ばれ、日光椿のほか多数の名椿で有名な鹿ヶ谷の尼門跡寺院はどこか。
〇後水尾上皇遺愛の『日光椿(じっこうつばき)』のほか、多数の名椿で知られる尼門跡寺院はどこか。
〇椿が有名な霊鑑寺は鹿ヶ谷にある尼門跡寺院で、通称「谷御所」あるいは「鹿ヶ谷( )御所」とも呼ばれる。
(左京区鹿ヶ谷御所ノ段町)
本尊 如意輪観音
臨済宗南禅寺派の尼門跡寺院。山号は円成山。谷御所・鹿ヶ谷比丘尼御所ともいう。承応三年(一六五四)に後水尾上皇の皇女、多利宮(浄法身院宮宗澄)が天台宗の寺として現在地の南隣に創建し、まもなく改宗した。貞享四年(一六八七)には後西天皇の旧殿を賜わって現在地に移転。その後、明治まで皇女が住持を継承した。庭園は上下二段に分かれ、主庭は下段の客殿南庭。東西に野面石垣の斜面があり、石垣下に枯池がある。南東隅に滝石組、対岸左に般若寺型燈籠を配置。後水尾上皇遺愛の日光椿の他、多数の名椿が植えられている。多くの御所人形をはじめ、歴代天皇の遺愛の香炉、書画や衰翰などを所蔵する。(京都検定テキスト)
過去問
〇「谷御所」とも呼ばれ、日光椿のほか多数の名椿で有名な鹿ヶ谷の尼門跡寺院はどこか。
〇後水尾上皇遺愛の『日光椿(じっこうつばき)』のほか、多数の名椿で知られる尼門跡寺院はどこか。
〇椿が有名な霊鑑寺は鹿ヶ谷にある尼門跡寺院で、通称「谷御所」あるいは「鹿ヶ谷( )御所」とも呼ばれる。
撮影機器:
感想
今日は日曜日・・・。
結構たくさんの方が登られていました。
山ではマスクはいらないないと思ったが、ひっきりなしに登山者とすれ違う。
いつもだったら気持ちよく挨拶をするのだが、
自然と顔は下向きになる(-_-;)
挨拶もほどほどに・・・。
ブログは
https://blog.goo.ne.jp/corpus2247/e/4d0d2e0bb9bd3a17a7444eb2e25932ff
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